ふと――自分は一体何をしているのだろうかと思い、手を止めた。

 右手には包丁。目の前には、分量の半分だけみじん切りにされた人参。

 必要以上に細かく刻まれた橙に、何故自分はこんなしち面倒くさいことをしているのだろうと考える。

 視線を横に移す。鍋には水が張ってある。メニューはカレーだ。再び手元に視線を戻す。何故だかみじん切りにされた人参は、変わらずそこに存在した。

 当たり前だ。他ならぬジェイド自身が先ほどまで刻んでいたのだから。

 ……さて。

 何故だろうかと、考えた(物凄く今更な、馬鹿な問いであることは他人に言われるまでもなく十分自覚している)。

 考えてすぐに脳裏に浮かぶのは、人参嫌いの赤毛の子供。以前、スープに入っていた人参を心底嫌そうな顔をしてためらいがちに口に運んでいた姿を思い出す。

 もう一度、視線を落とす。

 細かく細かく切られた人参。煮込めばすぐに溶けてしまうだろう。好き嫌いの多い子供にも気付かれず。

「――ふむ」

 何となく、納得する。

 納得するだけして、ジェイドは残りの人参をぶつ切りにして鍋の中に放り込んだ。

 他のメンバーが作るときよりも大きいその橙の塊に、子供は文句は言わないまでもきっと嫌な顔をするだろう。が、そんなのはジェイドの知ったことではない。

 ああ下らない。
 






否定することすら馬鹿馬鹿しい




 ――下らない。

 と。

 ふとした瞬間に取っている(取る、ではなく取っている)己の所業に関して、ジェイドは本心からそう思っているのだ。間違いなく。

 誰にともなくそんな言い訳をしながら、それでもその手に持つのは己が読むには明らかに不釣合いな入門書で。

 ……下らない。

 眉間にしわを寄せてため息をつき、一瞬悩んだ上で彼はその本を棚に戻した。

 例えばこの本を馬鹿な子供に薦めたとして、そして馬鹿な子供がこれを読んだとして、だからどうだというのか。何の意味もない。

 そもそも何故自分があの子供のために行動などしなければならないのだ。

 わざわざ図書館まで来て。わざわざ普段なら見向きもしない学術入門書のコーナーなどに足を踏み入れて。わざわざ子供でも分かるような内容の本を探して。

 ここまで来ると、『ダアトに来たのだからついでに』で済まされる範囲を超えている。何故自分はこんなことをしているのだ。

 別にルークを嫌っているわけではないが、自分がメリットもないのに他人のために何かをするというのは納得できない(納得しようがしまいが既に行動してしまっていることは、この際棚に上げておく)。それとも――

 それとも、ただ自分が気付かないだけで、子供のために行動することに何かメリットがあるとでも?

 そんなことを考える。

 しばらく考えをめぐらせても、結局導き出される答えは変わらない。

「…………下らない」

 素直に口に出す。下らない。確かに。納得する。

 口に出したついでに、いい加減鬱陶しくなってきた視線の主に声をかけた。

「で、そこでさっきから何をしているんですかルーク」

「うわぁ!?」

 背後でこそこそとこちらの様子を伺っていた子供は、気づかれていないとでも思っていたのか驚いたような声を上げた。ついでに何を引っ掛けたのか、重いものが倒れる音も聞こえる。

 はぁ、とため息をついて振り返ると、何をどうすれば突発的にそんなものが倒れるのか知らないが、身長よりも高い踏み台とともに床に座り込む子供がいた。

 いきなり声をかけられ、しかも静かな図書館内で思い切り音を立ててしまって慌てるのは分からないでもないが――

「馬鹿ですねえ」

 目が合うと、ルークはばつが悪そうに笑って見せる。困ったように頭をかいて立ち上がり、倒してしまった踏み台を元に戻そうと悪戦苦闘を始めた。

 それを手伝う気ははなからない。ないはずだ。……ないくせに、ふとした拍子にため息なんてつきつつ『仕方ないですねぇ』なんて言いそうになる自分は何だ。理解できない。

 理解できないことはひとまず棚に上げて、どうにか踏み台を立て直したルークの背に声をかける。

「それで、何をこそこそ見ていたんですか」

「う……」

 ルークはびくりと肩をすくませて、おずおずと振り返った。

 馬鹿な子供だと再び思う。一番の問題は、こんな馬鹿な子供のために行動している自分だが。

 そんなジェイドの内心を知らず、とても情けない表情をした子供はとても情けない声で言う。

「ちなみに、いつから気付いてた……?」

「三十分ほど前からですかね」

「……最初っからじゃねぇか……」

 深いため息をついてルークは肩を落とした。

 最初から――ということはギリギリのラインだったのか。

 その事実に、表には出さず安堵する。

「あーもう、何でばれるかなぁ」

 ぼやくルークには笑みを貼り付けた表情を返しておく。

 実際気付いたのはつきさっきだなどと言えるはずもない。

 子供の根気が持つのはせいぜいそれくらいだろうという己の判断は、一応間違っていなかったわけだ。しかしギリギリなのはいけない。以後カマをかけるときは気をつけることにしよう。

「それで、何をこそこそ見ていたんですか?」

 再度訊くと、子供は観念したようなため息をついた。

「自由時間っつってもダアトじゃあんますることねぇし、イオンは仕事でどっか行っちまうしガイはティアとナタリアの買い物に荷物持ちでついて行っちまったし……」

 それは『ついて行った』ではなく『連れて行かれた』ではないかと思う。

 まあどうせガイだ。わざわざ訂正する必要もない。

「で、まあせっかくだから本でも読もうかと思って来てみたらジェイドがいたから」

「……それで三十分ですか?」

「だってお前、図書館にいるのは分かるとしても本のジャンルが違うだろ、ここで何読むんだよ。ぶっちゃけ不審」

 ――さて、どう答えるべきか。

 正直なところを話すなら、『ルークでも分かるような歴史書を探していた』ということになるのだろう、恐らく。まったくもって理解できない行動だが。

 が、そんな馬鹿な答えを返すつもりはないし、そう言ったとしてもルークは信じないだろう。何せ己ですら信じられないのだから。

 ああ考えるのも面倒臭い。大体子供も、不審なら不審で放っておけばいいものを。

「別に、特に深い意味はありませんよ」

 何故だか唐突に面倒臭くなって、考え得る中で最も投げやりな言葉を返す。

 子供は納得しないだろうと考えてはいたが案の定、眉をひそめた不満そうな顔でこちらを見上げてきていた。

 何か訊かれるだろうかと覚悟はしていたが、ルークはしばしの沈黙のあとため息をついて、

「……あーもういい。どうせ訊いたってあんたは答えないだろうし」

 諦めに満ちた言葉を吐き出した。

 何故か――それを少し不満に思う。

 不満、なのだろう。この感情は。

 ルークが言っていることは確かにその通りで、どう訊かれようと本当のことを口に出す気はジェイドにはない。だから諦めをもってそれを受け入れたルークに、不満をもつ必要などどこにもないはず。

 ならばこの不満は何だ。

「………………」

 しばらく考えて、結論。

 気のせいということにしておこう。

 この厄介な感情の推移を誰かに――そう、喧しい己の君主にでも話せば明確な答えが得られるのかもしれないが、今のところその手段をとる気はない。後々面倒なことになりそうな上に、絶対に後悔するという変な確信があるから。

 ああけれど、自分のことであるはずなのに自分で分からないことがあるというのは、精神衛生上決して良いものではないのだが。

「なあジェイド」

「なんです?」

 視界に入る赤は変わらない。ああそういえば、赤が常に視界に存在するようになったのはいつからだったか。

「何が下らないんだ?」

 さらりと出された質問に、思考が一旦止まる。

 返答に窮して(けれど決してそう悟られないような表情で)質問者を見れば、当人は純粋に疑問だけを宿した目でまっすぐジェイドを見上げてきていた。

 その碧眼が自分だけを映していることに気分が高揚するが、そんな原因も分からない不可思議な現象はとりあえず放置してジェイドは答えを探す。

 下らない――何が?

 決まっている。

 子供のために歴史の入門書を探すことが。

 子供のために子供の嫌いな食物を必要以上に切り刻むことが。

 子供のために――

「貴方には関係のないことですよ」

 平然と嘘を使える自分の性格は、こういうときにありがたいと思う。

 ……嘘がつけない性格だったならもっと単純な話だったのではないかと、思わなくもないが。

「ええー、なんだよそれ」

「何だよそれ、と言われても、ねぇ?」

 はぐらかす様に笑えば、子供は拗ねたように口を尖らせた。

「……くそ、せっかくイオンがアドバイスしてくれたのに」

 ――イオン様?アドバイス?

「何の話です?」

 よく分からない発言に眉をひそめて問いかければ、予想外の答えが返って来た。曰く、

「こないだからジェイドが変っつーか怖いから、イオンに何でだろうなって訊いたんだ。そしたら、『だったらジェイドが何か変わったことをしたときに、真っ向から問い詰めてみるといいですよ』って笑うからさ」

 眉間にしわがよるのが分かった。

 真っ向から問われたところで、ジェイドに己の行動の理由は分からない。ただあの幼いなりに聡い導師が適当なことを言うとも考えにくい。ならば――導師には分かっているのだろう。この下らない行動の意味が。

 ――自分がとても愚かな人間になった気がして、ジェイドは深くため息をついた。

「で、何が下らないんだ?」

 再び問われる。

 貴方のために行動することが、などと素直に言えるはずもなく、ジェイドは肩をすくめることで答えに代えた。

 一番下らないのは、下らない下らないと言いつつも行動を止められない自分自身だとはっきりと自覚はしているのだ。









 死霊使いの初恋。何だかあともう一歩足りない。心中矛盾だらけの35歳独身。

……何だかいつもよりアレな感じなのは、いい加減ごまかしきれなくなってきたからですジェイド。
10万打、誠にありがとうございましたの気持ちを込めて。
ゆか様、砂絵様、キシル様へ。
リクエストはそれぞれ「ダメな大人なジェイド→ルーク」、「駄目な感じのジェイド×ルーク」、「無自覚ジェイド」。
三名様のみお持ち帰り自由とさせていただきます。
多分にかぶった内容でしたので、申し訳ありませんが独断でまとめさせていただきました。勿論、ご不満あれば受け付けますのでご遠慮なくどうぞ!