「やあ、こんにちは日本君」
「ええ、こんにちはロシアさん」

 いつものように、にこにことやって来た彼に私もにっこりと笑って声を返す。

 距離は約3m。

 遠いというほど遠くもないが、仲良く談笑するには明らかに向かない距離。これが境界。先ほどの笑みは忠告だ。これ以上近づけば容赦はしない。
 まるで警戒心の強い猫のようだと自分でも思う。それとも追い詰められた鼠だろうか。彼が境界線を越えたとき、逃げるのか噛み付くかは自分でも分からないけれど。

「久しぶりだね。元気にしてた?」
「はい、本当にお久しぶりですね。そのおかげで随分と心穏やかな日々を過ごさせていただきました」
「あはっそれはよかったね。僕は日本君に逢えなくて寂しかったよ」

 ロシアの言葉に頬が引きつるのを感じた。ああ、なんて虫唾が走る。作った笑みは警告で仮面で壁だ。いつものアルカイックスマイルではなく、溢れんばかりの笑顔を向けることで暴れだしそうな自らの感情を抑えている。

「そうそう今日は日本君にプレゼントがあるんだよ」

 黙り込んだ私の機嫌を理解しているのかしていないのか、ロシアは首を傾げると話題を変えた。差し出されたのは抱えるほどの向日葵の花束だ。強く自己主張する黄色は初めから気付いていたが見ないふりをしていたものだ。

「ヒマワリ、そういえば貴方の国花でしたね」
「そうだよ。君にあげようと思って用意したんだ」

 身体の大きな彼ですら腕から余るような大きな花束。いや、花束というにはあまりに粗雑な、単に摘んだ花々をリボンで結んだだけのもの。そのリボンですら拙く曲がってしまっている。それを微笑ましく思う自分も居る。だけど

「ふふっ太陽の花なんて貴方には一番遠いものでしょうに。ああ、だから『あこがれ』の花なのですか?」

 彼の極寒の地を指して揶揄すると彼の眉が不満げに下がる。彼が、ロシアが欲しいものを望むものを知っている。暖かいもの、鮮やかなもの、沢山の人。冷たい真白の地で独り夢見ていたもの。
 幼い子供のような人だと思う。純粋で残酷で、蝶の羽をむしるようなことを笑顔でする。そして、人の痛みが分からない人。そういえばヒーローに憧れる彼にもそういうところがあるかもしれない。ならばあの冷戦は子供の喧嘩のようなものだったのだろうか。

「・・・・・・貴方が、もっと遠くのヒトだったら良かったのに」

 近くでなければ、隣国でなければ、許容できたかもしれない。仕方がないヒト、そうやって愛することも出来たかもできない。 自らに関わりがなければ、害をなす存在でなければそうできる自分を私は知っている。薄情と言われようともそれでよかった。私は私だけで満足できる。
 だが彼は隣国で、私は彼に付けられた傷を覚えている。

 私の呟きを聞いてロシアは驚いたようにぱちりと瞬きをした。その後、ぱあぁっという擬音が聞こえるような笑みを浮かべて言った。

「僕は日本君が僕の近くで嬉しいよ」

 そして、境界線なんて初めから無かったかのようにずんずんこちらへ近づいてくる。

2m

1m

 ばさりという音と共に目の前が黄色に染まる。

ヒマワリ

 思わず受け取ってしまったその花を慌てて落とさないように抱える。

「大好きだよ、日本君。早く僕のものになってね」

 その言葉に反論しようと顔面を埋め尽くす花を除けると、すでにロシアは離れた場所にいた。3mよりもなお遠く。

「じゃあね」

 唖然とするこちらのことなんてまるで気にしない様子でひらりと手を振り立ち去る。残されたのは黄色い黄色い太陽の花。

「貴方のものになるなんて死んでもごめんです」

彼の消えた先を睨みつける。ああ、やっぱり大嫌いだ。


それでも手の中の花を握りつぶせなかったのは、花自身に罪は無い。そう思ったから、それだけだ。



雪原のヒマワリ 手の中の太陽



novel


2008/04/01