河合曽良は悪人ではない。とうてい善人とは呼べないひねくれた性格の持ち主だが、それでも一般に悪行といえるようなことは一つとしてしてはいない。師匠に対して辛辣な言動をすることは多々あったが、その根本にあったのは悪意ではなく、それを彼の師匠も承知していたのだからそれが悪行になろうはずもなかった。 地獄は悪意と恨みで出来ている。 行ったものの悪意と行われたものの恨みが合わさることで地獄は燃える。だからこそ閻魔は調べるのだ。悪意はなかったか、恨まれていないか。そしてその結果に沿って亡者を天と地に分けていく。 その点において曽良は何の問題もなく天国に分類されるだろう。彼の師匠がそうであったように。 「いやだなぁ」 緑色の冊子を広げて閻魔は呟いた。どうみてもジャポニカ学習帳にしか見えないそれは、持ち主の名を取って閻魔帳と呼ばれている。亡者の生前の行いを全て記すそれは偽ることなく事実を示す。 曽良のそれを何度みても彼に地獄を示すような過去はない。そんなことはとうに分かっているのに、それでも閻魔はそれを認めたくなかった。 「いやだなぁ」 天国にはあの人が居る。 天国に行けば曽良は幸せになるだろう。いや、地獄だとしても彼の師匠が居る場所ならば曽良にとってそこは天国と変わらない。 「いやだなぁ」 閻魔は曽良が欲しかった。暇つぶしにのぞき込んだ下界で見つけた真昼の月。彼の師匠、松尾芭蕉が人々を引きつける太陽ならば、そばに在る彼は月のようだった。白く、淡く、しかしそれでも冴え冴えと。 偶然見つけたその日から閻魔は曽良を眺め続けた。と、いっても勿論始終見つめ続けた訳じゃない。閻魔だって仕事があるし、そんなストーカーのようなことをしたいわけではなかった。ただ、暇つぶしのように息抜きのようにふとした瞬間に彼を覗きみるのが好きだった。遠くから覗く彼は人間として笑えるほどに欠けていて、それでもムカつくほどに幸せそうだった。閻魔は彼を抱きしめたかった。 いや、正直に言おう。 閻魔がしたかったのは、結してそんな慈悲めいたことではない。閻魔の望みは、絶望の底に打ちのめされた曽良を存分に哀れみ可愛そうがることだった。そして、その上で優しく抱きしめるのだ。 だからこそ閻魔は曽良を天国になどやりたくない。芭蕉に会わせたくない。芭蕉の居ない世界で苦しむ彼こそが閻魔の望むものだから。 「いやだなぁ」 何度目かの独り言の後にノックが鳴った。気の抜けた返事をすると書類を手にした鬼男が入ってきた。どうやら休憩は終わりらしい。 「ほら、大王。しゃんとしてください。もう次の亡者を呼びますよ」 秘書の言葉に閻魔がぐずぐずと背を伸ばしている間に、彼はもう次の亡者の名を呼んでいた。上司と違って相変わらず彼は、はきはきと動く。 「河合曽良さん、どうぞー」 声を追って入ってきたその姿に閻魔は微笑んだ。遠く望んでいた絶望がいま目の前にあった。 「こんにちわ。ようこそ閻魔庁へ」 にっこりと両手を広げた自分がその冷めた色をした瞳に映る。ただそれだけのことが、どうしようもなく嬉しかった。 |
冤枉を一層