臨也に家という概念はあまりない。
 臨也にとって家とは寝る場所であり、仕事をする場所である。快適であるならば別にそれがホテルであったところで構わない。臨也は人を愛してはいたが、場所を愛する趣味はなかったので、別にそれがどこであろうと興味はない。

 しかしそんな臨也でも、時折だが帰りたいと思うことがあった。

 事務所を兼ねた新宿のマンションにではない。妹たちや両親の居る実家にでもない。ちなみに今は離れた池袋にでもない。
 およそ場所とは言えないところだ。いや、だからこそ場所に執着のない臨也が帰りたいと思うのかもしれなかった。






「ドータチンっ」
 駆け寄って背中に飛びつく。後ろから静雄の怒鳴り声が聞こえてきたので、くるりと門田ごと方向転換をする。さしたる抵抗もなく、門田は臨也の望むように静雄に向き合った。
「門田、そこを退け」
 ぐるると獣のように唸りそうな声で静雄が門田に言う。
「はぁ、今度は何やったんだ」
「んー、ちょっと先輩達をけしかけただけだよ?」
 そう言ってあははと笑えば、静雄からだろう殺気が増した。しかし静雄のキレ具合も彼の暴力も知っていながら、門田は怯むことなく彼の前に立っている。
「はぁ、そりゃあ臨也が悪いな」
「わかったらノミ蟲を渡しやがれっぶっ殺してやる」
「まぁ、落ち着け」
 臨也が悪いと言いながら、門田は静雄に俺を渡すことはなかった。

(まぁ、別に引き渡されたところで逃げるからいいんだけどね)

 臨也は人を愛している。
 その動作を把握して予想して動かすことが好きだ。ある意味では信用している。個々人の動作予測を信じて用いている。つまり信じているのは自分だ。
 臨也は人を愛している。だが臨也は人を信頼するつもりはない。
 門田の背に逃げ込んだのだって、別にかばって貰うのを期待したわけじゃない。誰かを利用するのならともかく、誰かに頼るなんて冗談じゃない。

 それでも門田の傍は居心地がよかった。
 門田は新羅のように余計なことを言わない。静雄のように暴力を振るうこともない。多くの女子のように臨也の顔に騒ぐことも、多くの男子のように怯えることもなかった。なんでもないように、臨也がそこに居ることを許容していた。

「臨也には俺から言っておくから、そろそろ教室に戻ったらどうだ?もう昼休み終わるぞ」
「あ、いたいた!静雄、次移動だよ」
 静雄を探していたらしい新羅が駆け寄って、静雄の腕を引いていく。手に生物の教科書と白衣を持っていたから、午後は生物の実験なのだろう。授業の進み的に次は蛙の解剖か。新羅はすでに何度も経験済みだろうに生き生きとしている。
「ッチ」
 静雄は門田と話しているうちに多少怒りが収まったのか、大人しく新羅に従った。門田に隠れて臨也の姿が見えなかったのもよかったのかもしれない。

 ふと思いついて、新羅たちを見送る門田の背にナイフを当ててみた。対静雄用によく研いでいるとはいえ、何の力も込めていないそれは服すら傷つけない。何となく力を入れてみる気にはならなくて、代わりにぎゅっと抱きしめてみた。
「おい、臨也?」
 触れた部分から感じるものは熱と肉の感触。そして小さく心臓の音。

 例えばこの背にナイフを当てて力を込めれば、あっけなく肉まで裂くことができるだろう。門田は静雄とは違い普通の人間なのだから。
 例えば車にひかせれば、あっけなくこの男は死ぬだろう。だって彼は普通の人間だから。

 シズちゃんならば、そんな簡単に死んでくれない。新羅ならばきっと俺に背を預けたりしない。

 きっと機会があれば新羅は俺を解剖するだろうし、必要があれば俺は新羅を刺すだろう。それはつまり機会がなければ新羅は俺を解剖したりしないし、必要がなければ俺は新羅を刺したりしないということでもある。
 互いがそれを理解しているからこそ俺たちは適度に警戒し合い、適度に信用し合える。
 だから俺達は手を繋いでも背は預けない。

 だというのに、この男はなんだろう。
 静雄のように異常な肉体を持っているわけでもないというのに、どうしてこうも簡単に俺に背を預けることができるのか!俺の懐にあるナイフの存在を知らないわけでもないだろうに。静雄相手とはいえ、躊躇なく斬り裂く姿を見たことがないわけでもないだろうに。

 なんて!なんて、なんて、なんて愚かなんだろう!

「臨也?どうかしたのか?」
 心配する声に俺は笑いだしてしまいたくなる。簡単に俺なんかに背を預けて、簡単に俺なんか信じて馬鹿じゃないの。
「ドタチンはさぁ、俺に刺されるかもとか思わないわけ?」
 そう尋ねれば門田はなんだそんなことかとばかりに息を吐いた。
「お前はやるとしたら直接じゃなく、裏から手を回すだろ」
 まぁ静雄の奴は例外みたいだが。なんて苦笑い。それどころか「やるつもりもないのに、そんなこと言うもんじゃない」と叱られてしまった。

 本当になんて愚かなんだろう。
 ぎゅっと背に頬を当てる。制服越しに伝わる熱に何故か泣きそうになった。

 嗚呼、俺は人間を愛してる。





 帰りたいと時折思ことがある。
 あの頃に戻りたいとかそんなことを言うつもりはない。あの頃から今に至るまでの道のりに反省はあっても、後悔はない。
 けれど、時折思うのだ。あの背中に帰りたいと。
 帰りたい場所が家だというのならば、臨也の家はあそこだった。

 あの背の後ろでなら臨也は愛を感じることができた。人間を愛することができたし、人間からの愛を感じることができた。
 愛とはつまり理解だ。理解し受け入れることこそが臨也にとっての愛だ。
 門田はある意味で臨也を理解していた。人によっては眉をひそめるその性質を理解し、それでも自分に害がないならと受け入れていた。
 無関心なだけだという者もいるだろう。しかしそれでも臨也はそれを愛だと思った。愛の反対を無関心とか言った人物もいるが、臨也にとっては愛の反対は嫌悪だ。臨也にとって無関心な人間などいない。興味の度合いは人によって異なるが、たった一人を除いてその全てを愛しているのだから。

 あの場所で人間とはつまり門田のことである。限定した形ではあるが、あそこでならば臨也は「人間を愛し、人間に愛される」という望みを叶えることができた。

 帰りたいと時折思う。愛されたいと、理解されたいと時折思う。

 そういうとき、臨也は独りで家に籠もることにしていた。間違っても門田に会いに行ったりはしない。それをしてしまったらおそらく折原臨也はそのアイデンティティを失ってしまうからだ。
 きっと臨也は人間ではなく門田を愛してしまうだろう。それはとても恐ろしいことだ。人間を愛すことこそが折原臨也の命題である。それを失えばそれは折原臨也ではない。

 新宿のマンションにある自宅兼オフィスである部屋の鍵を開けて中に入る。玄関にはパンプスがあり、波江の存在を知らせていた。
(ああ、波江に今日は終わって良いって言わなくちゃな)
 今日は仕事をする気になれない。

 ドアを開けると書類を整理していたらしい波江が振り向いた。今日の仕事の終了を告げる前に彼女が口を開く。
「あら、おかえりなさい」
 それだけ言うと、彼女はまた書類に視線を戻した。

 ああ、なんてことだろう!

 彼女にしてみればなんてことない一言に違いない。愛する弟を出迎えることを日常としていた彼女にしてみれば、単なる習慣であったのだろう。それでもその一言は今の臨也には酷く響いた。

 なんだか泣きそうになって、臨也は笑う。
 突然笑いだした臨也を波江はいぶかしそうな顔で見るが、知ったことか。

「ただいま!」

 人間は俺を愛してくれるだろうか。




私は家に居ます。
I'm home.



novel



2010/5/18