井の中の蛙の幸せいま、俺は自分の部屋にいる。
 外は今日も雨。梅雨あけ宣言はもうされていた気がするけれど、このところ毎日のように雨が降っている。それともやっぱりもう夏で、これは夕立なのだろうか。
 いや、そんなことはどうでもいい。それより問題なのは、俺の部屋に部屋の主以外の人間が居ることだ。ちなみにリボーンじゃない。ランボでもイーピンでもフウ太でも母さんでもない。

「なんでお前、俺の部屋なんかにいるの?」
「君の母君に連れ込まれたんですよ」

 あえて、呆れたように告げた言葉に奴は振り向きもせずに答えた。その目は相変わらず本に向けられている。こんちくしょう。
 仕方がないので、俺はドアの前に立ち尽くしたまま骸の背中を眺めた。本を読んでいるので、背骨が丸くなっている。Tシャツから覗く首筋がやけに白い。濃紺の髪との対比に何故かくらくらした。
 今日の骸の髪はいつもより艶が増して青みも強い。どうやら濡れているようだった。そういえば首にはタオルが下げられているし、着ている服は「根性」なんて書かれたTシャツだ。
 どうやら奴も俺と同じように雨に降られたらしい。ちなみに俺の首にもタオルが下がっている。びしょ濡れで帰ってきたところを、母さんに風呂に放り込まれたばかりだ。奴もそうなのだろう。

(母さんも骸が来てるなら、来てるって言ってくれればいいのに………。だいたい俺のじゃサイズが合わないだろうけど、なにも父さんの服をきせることないじゃないか。似合ってないし、サイズでかくてぶかぶかじゃん)

 なんだか気持ちがもやもやする。骸を前にすると最近俺はいつもそうだ。イライラしてもやもやして、でも時々嬉しくて悲しくもなる。この明けたのか分からない梅雨のように俺は骸への気持ちが分からない。

「あーっもう!」

 気持ちを振り払うように声を上げると、俺は骸へと足を進める。

「お前、ちゃんと髪乾かせよ。風邪引くだろ」
「別に平気です」

 タオルで拭こうと伸ばした手は、骸が避けことによって空ぶった。こんにゃろう。

「駄目だっての。ほら頭よこせ。あとでチョコでもなんでもやるから!」

 言った瞬間、後悔する。ああ、思わずいつもランボに言うような言い方になってしまった。骸がゆっくりとこっちを向く。
 いや、これはいつもランボに言っているせいでっあいつもじゃもじゃで乾きにくいくせに髪拭くの嫌がるからっ別に骸を子供扱いしたわけじゃなくてね!?
 思わず脳内マシンガントーク。ちなみに実際に口に出した場合、俺は確実に噛むだろう。
 骸が少し俯いて口を開く。頬が少し赤い。

「ま、まぁ君がそこまで言うのなら拭かせてあげても構いませんよ!」
「………っ」

(ワオ、ツンデレかい?)

 脳内で某先輩の声がした。ツンデレ!?こいつツンデレなの!?……ていうかどんだけチョコ好きなんだよ!ああもう、こいつどうしよう。こいつどうしようっていうか、俺がどうしよう。なんでこんなことで、こんな奴相手に心拍数があがるんだ!うわぁあああああっ!
「ちょっと!どうせならもっと丁寧に拭きなさい!」
 赤くなった頬をごまかすように、ごしごしとタオルを当てた俺に骸の文句が飛ぶ。あ、手に当たる髪の毛が気持ち良い。俺の髪とはだいぶ毛質が違う。俺のはもっと太くて固いけれど、骸のは細くて柔らかい。こういうのを猫っ毛っていうんだろうか。

「………」
「………」

 ああ、沈黙が苦しい。静まり返った部屋に雨音だけが聞こえる。

「あー」

 息苦しさを紛らわすために、特に意味のない声を出した。別にこんなことで紛れるはずもないが、気休めだ。気休めだった。

「なんですか」
「へ」

 どこか居心地の悪そうな骸の問いに間の抜けた声がでる。え、何が?

「今、何か言おうとしたでしょう」
「あー、うん・・・」

 どうしよう。別に何か言いたかった訳じゃないんだけど。でも、そんなこと言ったら怒られる気がする。何か……!何か適当な話題を……っ!へるぷみー。

「む、むくろってさ」
「はい?」
「骸って本当にチョコ好きだよな!なんか理由ってあるの!?」

 また言った瞬間に後悔する。骸を前にすると俺の口はおかしくなってしまう。さっきから後悔してばかりだ。大体、理由ってなんだそれ。好物に理由がある奴ってあんまりいないだろ。

「好物に理由が必要ですか?」

 ほら、やっぱりねー!!

「いや、あんまりチョコが好きな男っていないらしいし!?」

 だから、何言ってんだ俺。男=チョコ嫌いって図式も別にないだろ。俺だってふつうにチョコぐらい食べるよ!?

「ふうん?」
「………」
「………」
「………」
「……はぁ、」

 気まずい沈黙の末に骸がため息を吐いた。うわーん、やっぱり呆れられた!?

「昔、チョコレートを与えられたことがありました。当時の僕の目にそれはとても素晴らしいものに思えた」

 チョコが?そんな言うなんてどんなチョコだよ。そう言い掛けて、骸の過去を思い出した。もしかしたら昔とは研究所に居た頃なのかもしれない。

「彼女にしてみれば、ほんの気まぐれだったのでしょう。ポケットに忘れていたものをゴミ箱に捨てるようなものだったのかもしれない。それでも、実験結果によっては一日一食も与えられない僕らにとっては。冷めた栄養食を与えられるだけの僕らにとっては。それでも、それは夢のようだった」

 語られる過去に息をのむ。かける言葉が見つからなかった。そもそも俺なんかにそんな権利はないような気がした。俺には想像も付かない、ドラマの中のような話。それでもそれは骸の真実なのだ。

「まだ、僕が僕ではなかった頃の話だ。痛くければ嬉しくて、暖かければ幸せで、三食食べれればその日はとても良い日だった。外から来た子供は泣いていたけれど、外すら忘れてしまった僕にとっては、それが全てだった」

 言葉をなくす俺に骸が笑う。自らを嘲るように。

「おかしいでしょう?そんなただの気まぐれを今でも引きずっているなんて」
「……っそんなことない」

 おかしくなんてない。そう言うのがやっとだった。気の利いた慰め一つ言えない自分が、ひどく悔しく情けない。

「まぁ、そんなのはただのきっかけですよ。今では単に味が好みだってだけです。あとは幻術には脳に糖分が必要なのでそのせいですかね」

 くふふ、と骸がいつものように笑う。その顔にさっきまでの自嘲の表情はない。そのことにほっと息を吐く。

 だけど一つだけ、気になったことがあった。
 チョコをくれた人を骸は彼女と言った。そして、その人のことを口にしたとき、少し、ほんの少しだけれど骸の雰囲気が柔らかくなったような気がしたのだ。
 ああ、もしかしたら骸にとって、その人は初恋の人だったのかもしれない。
 そう思うと胸のどこかがチクリと痛んだ。どんなひとだったのだろう。優しかったのだろうか。美しかったのだろうか。

 いまは、どうしているのだろうか。

「その、ひとは・・・?」

 どうしているの?好きだったの?
 自分でもなにを聞きたいかも分からないまま、気づけばそう口から出ていた。胸が締め付けられる。心臓の音がする。
 この感情を不安と呼ぶのだと俺は知っている。
 骸が瞬きをしたあとその薄い唇を開いた。ゆっくりとそれが弧を描く。

 骸が、わらう。

 それはそれは美しく。

 むくろが、

「殺しましたよ」

 当然でしょう?そう言って、悠然と笑う。俺はただその姿を呆然と見ていた。

 ああ、なんてことだろう。どんな慰めも意味をなさない。どんな言葉も彼には届かない。俺はそれを悟ってしまった。だって骸はそのことを辛いとすら思っちゃいない。

「どうして、泣くのですか」

 珍しく戸惑うような骸の声に俺は顔を上げる。しかしこの瞳に映る姿は歪んで見えた。頬を滴が伝う。ああ、俺は泣いているのか。

「どうして、君が泣くんですか」

 骸の細い指が頬を拭う。その温度は温かかった。それが哀しくてそれでも嬉しかった。

「お前が、」

(おまえが、泣かないからだよ)

 そう答えたかったけれど、それを口にすることはできなかった。
 だって骸は泣かない。泣きたいとすら思っていない。ならばこの涙は、たんに俺が自分のために泣いているのだ。
 そして俺は、そのことがどうしようもなく悲しいのだ。哀しいのだ。

(ああ、そうか)

 なぜ苦しいのか。なぜ悲しいのか。なぜ嬉しいのか。その答えを見つけてしまった。

「好きだからだよ」

 骸の瞳が見開かれる。頬を濡らしたまま俺は笑う。




閉ざされた世界で二人
 梅雨だろうとそうでなかろうと、外は相変わらずの雨だった。

novel

2009/8/6