Y→Xの方程式




「俺ね、むかし男の子になりたかったんだ」

 そう言うと骸が不可解そうに眉を顰めた。たしかに少し唐突だったかもしれない。
 何故一人称が俺なのかと骸に聞かれたことがあったのを、思い出したから言ってみたのだけれど。思えばそれももう一年近く前の話だ。骸は覚えていないかもしれない。綱吉だって思い出したのは奇跡のようなものだ。



 沢田綱吉はその名前に反して女に産まれた。周りがどう望もうとも、本人がどう願おうとも、沢田綱吉は染色体にYを持たない人間だった。
 父は何も言わなかったけれど、母は何も言わなかったけれど、それでも周囲の人間から男の子だったらと思われていることに綱吉は気づいていた。
 綱吉は聡い子供だった。賢い子供だった。賢い大人ではなかった。
 まず、着るものを変えた。母の趣味のひらひらとしたスカートから、同年代の男の子が履くようなズボンと選んだ。
 言葉遣いを変えた。「あたし」から「おれ」に直して、少し口調を乱暴なものにした。
 それが大体形になったところで、綱吉はそれまでを捨てた。女の子であった過去があれば、それは綱吉が男らしくあるのを邪魔してしまう。
 そんな子供らしく単純な考えで、子供らしくない程度に賢かった綱吉はあっさり自分を捨ててしまった。周りの声を聞き取ってしまう聡さを捨てた。周囲の期待に応えようとする従順さを捨てた。
 もっと子供らしく、もっと普通にと、周りの子供を参考に持っていたもののほどんどを捨ててしまった。そうして出来たのは平均よりちょっと駄目な人間だったけれど、綱吉はそれに満足した。そして忘れた。



 小学校のクラスメイトたちはダメツナをバカにはしたけれど、綱吉の性を否定したりはしなかった。彼らは綱吉を男子としてあつかった。綱吉の望み通りに。
 だから中学校にあがって一番最初の障害は制服だった。

 スカートなんて!俺に女装させるつもりか!

 そんなどこかおかしい、しかし切実な訴えに、母さんは溜息を吐きつつも学校に相談してくれた。
 数年前にやっていたドラマのおかげだろうか。染色体はXXだが、女子の制服は着たくないという俺のわがままは思いの外あっさりと受け入れられた。
 ただし風紀委員長にどうされても知らないからな!とのことだ。うん?
 そのときは首を傾げたが、入学してから数ヶ月も経てば教師の言葉も理解できた。
 だけど、俺は相変わらず男子の制服を着続けた。
 ヒバリさんは何も言わなかった。
 俺が女子だと気づかなかったのかもしれないし、本人も学ランを着て制服違反をしているからなのかもしれない。というか、元々並中の風紀委員のルールはヒバリさんのルールなので、ヒバリさんが不快でなければスカートが短かろうが髪を茶色くしようが何も言わない。つまり俺程度のことなんてヒバリさんが気にしようはずもないので、そういうことなのだろう。

 俺は俺であることに満足していた。
 ダメツナと呼ばれようと、性別のことで奇異の眼で見られようとも、俺は変わりたいとは思わなかった。
 自分が女であることには違和感を覚える。しかし男になりたいかといえば、さてはてどうなのだろう。
 手術?ホルモン注射?性同一性障害?
 俺は首を傾げる。

 どうして俺は女子ではないのだろうか?
 どうして俺は男子ではないのだろうか?
 どちらでもない。どちらにもなれない。
 さて、どうしてだったろうか?

 それでもそんな悩みなど、一晩も持たず夕食を食べれば忘れてしまう。
 俺は、俺だ。それでいいじゃないか。
 男友達ができた、女の子の友達もできた。
 それでいいじゃないか。

 それでいいと、思っていたのに。
 出会ってしまった。
 
 骸にはじめて会ったとき、心臓がどくりと跳ねた。
 俺はそれを恐怖だと思った。
 それでも骸を見るたびに俺の心臓はどくどくと跳ね、腹の奥はしくしく泣いた。
 しくしくしくしくと、血を流した。
 俺は笑った。笑うしかなかった。いっそ泣けばよかったのだろうか。

 ああ!なんて浅ましい生き物なのだろう!

 骸を見るたびに腹の奥が、子宮がじくじくと熱を持つ。
「あは、あはははははっ!」
 気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。
 俺はこんなにも気持ち悪い生き物だったのか。



 生理は嫌いだ。自分が異常なのだと思い知らされる気がするから。
「なに、やってるんですか」
 ある日の夕方、貧血で道端にしゃがみ込んでいると、頭上からそう声をかけられた。聞き覚えのある声に顔をあげれば、予想通りの人物が顔をしかめて俺を見下ろしている。
「なんでもないよ」
 慌てて立ち上がり平気なふりをする。骸に気づかれたくはなかった。
 それでも骸を見ただけで、きゅうきゅうと子宮が泣く気がする。
「えっと、骸こそどうしたの?」
「クロームがハルさんのところに遊びに行っているんですが、そろそろ暗くなるので迎えにいこうかと」
 ごまかすように話を逸らした。わざとらしい話題の切り替えにも骸はとくに気にした様子はない。きっと、俺のことなんてどうでもいいのだろう。
 その事実が苦しくて、自然と顔は俯いた。
「骸はクロームには優しいんだな」
 橙に染まりつつあるアスファルトに視線を落としたまま、絞り出すように俺はそう言って笑った。
「そうですか?」
 俺には優しくないくせに。
 そんな思いがトゲとなって言葉に混じる。けれど骸は気づかない。気づいてもくれない。
「ふつうですよ。女性には優しくするものでしょう?」
 あっさりとそう口にする骸は生まれはどうあれ、イタリア男で、俺はそれが嫌で堪らない。
 骸が優しくなければ良かった。誰に対しても優しくないのならば、こんな思いを抱かずにすんだ。
 こんな風に、クロームが羨ましいなんて思いたくはなかった。
 すぅっと視界が暗くなる。
 心か、貧血か、それとも単に日が落ちただけか。赤く染まる町並みは薄暗く、俺には骸の顔が見えない。
「では僕はもう行きますので」
「ああ、うん……」
 骸はそう告げると、夕闇のなか歩きだした。俺はただその背中を見つめることしかできない。
 呼び止めたいと思っても、そのための理由を俺は持っていなかった。声にならない言葉が喉の奥を彷徨っては消える。

 むくろ。
 ねぇ、むくろ。

 骸が離れた途端にじくじくとした痛みが復活した。子宮の奥がぐるると唸る。まるで飢えた獣のようなその声を体内で聞いて、俺はなんだか泣きたくなった。
 ああ、血が下がっていく。気持ち悪い。
 どうせ骸は気づかないし、もうしゃがんでしまおうか。
 そう思った時だった。
 くるりと骸が振り向いた。不機嫌そうに眉をしかめているのが、薄暗い視界でも分かった。俺はごくりと息をのむ。
「なにをやっているんですか」
「え、なにも……」
「具合が悪いのならば、さっさと帰ったらいかがですか」
 骸はひどくつまらなそうに、呆れたようにそう言うと再びきびすを返して去っていった。今度こそもう止まらない背中を俺は呆然と見送る。
「は、」
 骸の姿が見えなくなって、俺は浅く息を吐いた。
「あは、ははははっ」
 誰もいない住宅街で俺は笑う。太陽はとっくに姿を隠していて、辺りは夜の青に浸されている。
「はは……」
 気づかれていた。骸は俺の体調に気づいていた。
 そのことを嬉しいと、思えない自分がほとほと嫌になる。
 喜べばいいじゃないか。骸が気づいてくれたんだ。俺を気遣ってくれたんだ!
 そうやって単純に喜べばいいのに、様々な感情の嵐の後で俺の心に残った悔しさだった。
 骸は俺の体調に気づいていた。そしてその上で、クロームを迎えに行ったのだ。
 気遣うような言葉だって、同時に向けられたのはつまらないものをみるような冷たい眼だった。クロームに向けられる優しい微笑みなど、俺には決して向けられない。
 こんなこと思い知らされたくなんてなかった。
「あ、ぁ」
 笑い声はいつしか嗚咽に変わっていた。ぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。頬がべたついて気持ち悪い。

 俺は自分が嫌いじゃなかった。
 女でもなければ男にもなれない、中途半端な生き物。
 勉強も運動も何一つ人並みにこなせないダメツナ。
 それでも、俺は俺が嫌いじゃなかった。
「むくろ」
 なのに、これは何だろう。
 骸に出会ってから、俺は俺を嫌ってばかり。
「むくろ、むくろぉ」
 いくら名前を呼んだって、こんな俺では届かない。
 今頃、骸はクロームの隣で微笑んでいるのだろう。俺の声なんて涙に飲まれて惨めに地面に落ちていくだけだ。
「――っ」
 ほら、だってこんな俺じゃあ好きという一言すら言えない。
「っはは」
 ぐっと涙を拭って俺は歩きだした。相変わらず子宮はじくじくと痛むけれど、今はもうその痛みすら愛せる気がする。
「は、ははは」
 清々しかった。悲しかった。嫌いじゃなかった。愛してる。
 だから、

 俺はその日、沢田綱吉を殺した。




 次の日、スカートを履いた俺を見た周囲の反応は面白かった。
 母さんは喜ぶし、クラスメイトは大騒ぎだし。獄寺くんは挙動不審だし、山本はまったく気にしないし。京子ちゃんたちは戸惑いつつも「じゃあこれからはツナちゃんって呼ぶね」なんて笑ってくれた。
 肝心の骸はというと俺を見た瞬間に「女装?」と眉をしかめてすごく引いた顔をしていた。どん引きだった。本当にまったくどうしようもない。

 まぁ、でも結局は紆余曲折ありながら、今の俺と骸があるわけだ。
「格好とか仕草はそれなりに女らしくなったと思うけど、口調は直らなかったなぁ」
 骸の肩に頭を預けて、俺はそう自身を振り返る。
「いまはもう、男の子になりたくはないんですか?」
 俺の髪を梳きながら骸が尋ねた。その顔が優しく微笑んでいることを振り返らずとも俺はもう知っている。
「骸は、俺が男の子だったら好きじゃない?」
「生憎と、そういう趣味はもっていません。くふふ、でもそうですねぇ、綱吉くんのことは男でも女でも、たとえ人間じゃなくったって好きですよ」
 額に降ってくる唇がくすぐったくて、俺はクスクス笑う。
「うん。骸がそう言ってくれるから、俺も俺が好きだよ」
 スカートは履くけど、言葉遣いは直らないし一人称だって俺のまま。体型だって色気があるとは言いがたいつるぺったん。いっそ今でも男装したらバレないんじゃないかとすら思う。
 けれど、そんな自分のことを俺は好きだ。
 骸が好きだと言ってくれるから、俺は沢田綱吉として生きている。
「はぁ、普通ここは僕を好きって言ってくれる場面じゃないんですか」
 溜め息を吐いた骸がそう言って、俺の頭に顎を乗せた。その拗ねたような口振りがおかしくて俺はやっぱりクスクス笑う。
「好きだよ、骸」
 あの夕方言えなかった言葉は、今度こそすんなり骸に届けられた。


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2010/08/08