袖振り合うも多生の縁。
 それが多少の縁ではなく、多生の縁だと知ったのは中学の国語の授業でのことだった。昼休みを終えた五時間目、夢現のなか俺はそれを聞いた。

「袖が触れあうのも一種の縁だから出会いは大切にしろ、みたいな意味で誤用されることが多いがこれは間違いだから気をつけろ。タショウっていうのは多少じゃなくて多生、前世のことだからな。だから正しくは、袖が触れ合うだけのことでも前世のなんらかの縁があってのこと、という意味になる。因果応報ってやつだな」
 黒板にチョークが削れる音、ぱらぱらとめくられる教科書やノート、教師のどこか遠い声、そんなものをBGMにして俺はそっと腕を枕にする。
 横に向けた顔に午後の日差しが眩しい。空の青さが目に染みた。

「……袖振り合うも、多生の縁」
 腕に沈めた口の中でそっと呟いてみる。

 ああ、でも先生。俺は『多少の縁』がいい。これからの出会いなら大切にできるから。前世の縁じゃどうしようもないじゃないか。
 ああ、ああ!でも何より怖いのは、袖を触れ合わせることですら前世の縁が必要だというのなら、来世にみんなにまた出会うにはどれほどの縁が必要なのだろう。俺はそれが恐ろしい。今生で会えなかった人にはもう二度と生まれ変わっても会えないのだろうか。もう二度と、袖を触れ合わせることすら出来ないのだろうか。
 別に生まれ変わりなんて信じちゃいないけど、俺はそれが恐ろしいのだ。

 夢に意識を喰われていく中、俺はそんなことをぼんやり思い、そして居眠りに気づいた教師に軽く教科書で叩かれた。


 *****


 そんなもう何年も前のことを思い出したのは、横断歩道の向うの男と目が合ったからだった。
 見知らぬ男だ。
 会った事も見たこともない、聞いたことすらないだろう、俺にとってまったくの知らぬ男だ。男は美しい顔をしていたが、おそらく雑誌やテレビで見たというわけでもないだろう。
 赤の他人だ。そのはずなのに、何故かそいつと目が合った瞬間に俺の心臓はびくりと跳ねた。

 男も俺の存在に気づいたようで、一瞬目を見開いた。微かに眉を寄せて、微かに笑みを浮かべて、そしてそっと目を逸らした。目を逸らされた事実にどこか傷付いている自分に俺は気づかぬふりをする。だって知らない人に目を逸らされたところで、傷付く必要なんて欠片もない。

 信号が青に変わって同じく信号待ちをしていた人々が歩き出す。その波に乗るようにして俺もまた足を進めた。視線の先では男もまた同じようにこちらに歩いてくるのが見えた。

 5歩、

 4歩、

 3歩、

 2歩、

 1歩、

 ぜろ。

 擦れ違う瞬間に微かに俺と男の服がぶつかる。微かな衣擦れの音を耳にして、それでも俺は足を止めずに歩き続ける。
 背後で、おそらく男は振り返っているだろう。俺はそれを確信しながらも足を止めない。振り返らない。



 一筋涙が流れたのは、多生の縁があったからなのだろう。


袖振り合うも多生の縁



novel


2009/11/23