幼い頃、僕にはもう一人僕がいた。確か小学校1年生の頃だったと思う。兄の野球の試合を見に行った記憶があるからそのくらいのはずだ。兄は高校からは軽音部に入った。音痴なのに。練習せずに怪我ばかりしているのに叶わない先輩がいて所詮天才には叶わないのだと悟ったと言っていた。その兄も数年前に家を出て一人暮らしをしている。元気にしてるかは知らないが正月には帰ってくるだろう。 いや、話がずれてしまった。兄のことはどうでもいい。今はもう一人の僕のことだ。もう一人の僕。こう言うと、まるで僕が二重人格の人間かと思われるかもしれない。でも僕は二重人格者ではない。いや、もしかしたらそうだったのかもしれない。あの頃確かに僕の中には僕でないもう一つの人格がいたのだから。 ムック。 僕は彼をそう呼んでいた。当たり前だが、実際に彼の名前がムックだったわけではない。彼が名乗った名前は難しくてあの頃の僕には覚えられなかった。だから僕は当時見ていた子供向け番組のキャラクター名を付けたのだ。 ムックは頭が良かった。僕には理解できない様々なことを考えて行動していた。当時はよくわからなかったが彼はおそらく世界を馬鹿にしていたのだろう。僕を取り巻く平和を馬鹿にし、くだらないものだと告げながら、それでも存在を許容していた。今思えば、彼は僕を僕たちを自分と同じものだとは認識していなかった。 例えるならば犬だろうか。自分とは違うものだと切り離し、見下しながらも、その平穏を崩してしまおうとは思わない。気まぐれに害し、気まぐれに撫でる。 それでも彼のことを嫌いにならなかったのは、現金だが僕が撫でられる側だったからだろう。基本的にムックは僕に優しかった。分からないことを質問すれば捻くれた回答だったが答えてくれたし、いじめられたときも助けてくれた。そのたびに僕は憧れと好意を強くしたのだ。 あの頃の僕はムックに出来ないことはなくて、ムックより強いものなどないと思っていた。 ムックは常に僕の中にいたわけではなかった。最初の頃は一緒のことが多かったけれど、しばらくしたら時たまにしか来なくなった。ふらふらといなくなってふらふらと現れる。本来なら初めから拒絶すべきだったのかもしれない。けれど、いつしか僕はムックがいるときこそ居心地がよくなっていった。 あの頃の僕にとって彼は既に自分の一部だった。 ざわざわと心が蠢いている。言い表すならこれは不安とでもいうのだろうか。いつからか僕はずっとこの虚ろを抱えて生きている。 ムックがいなくなったのは一体いつだっただろうか。月日が経つごとに、だんだんと来る回数は減っていった。「ずっと此処にいて」「一緒にいて」そう引き止めたかったが、そうしたらそれこそ見捨てられそうな気がして出来なかった。そしてムックは来なくなった。 虚ろに気付いたのはそれからしばらくしてからだ。 いつのころからか僕の心には空白があった。ムックがいたはずのその場所は埋まることなく僕の心に穴を開けた。一人でありながら独りでない状態を知ってしまった僕にとって独りであることは苦しかった。家族といても、友達といても、それは変わらなかった。彼女を抱いているときでさえ、どこか孤独を感じていた。いいや、これは孤独なんて高尚なものではない。 渇きだ。 狂おしいほどの渇きをもって、僕は彼を望んでいるのだ。 この感情を僕は幼い頃にすでに知っていた。あの頃、僕は人格という薄い膜を通してそれを感じていた。ムックは誰かを愛し、憎み、呪い、望んでいた。その渇きを僕は子守唄のようして眠った。 嗚呼、彼をあそこまで渇かせたのは一体どんな人だったのだろう。人類の大半をヒト扱いしない彼の中で確かに人間であったその人は。 「さわだ、つなよし・・・」 不思議なもので彼の名前は覚えていなくとも、その名前は記憶に残っていた。ムックが何度も呟いていたからかもしれない。 暗い部屋で携帯を手に取る。画面の光に顔が照らされるのを感じた。メールボックスから一通のメールを開く。差出人は入江正一。何度も見た文面を確認し、口元がゆるんだ。 ざわざわと心が騒ぐ。虚ろが蠢く。失くした空白を取り戻そうと、渇きをもって僕を急かす。成長するほどに虚ろはその存在を濃くした。性欲を満たせば無くなるかと思ったそれは、彼女を抱けば抱くほど違和感を突きつけるばかりだった。取り戻すのだと虚ろが囁く。 取り戻せとりもどせトリモドセ。 そして、欲望が示すまま僕は動き出した。もう見捨てられるのを恐れるばかりの子供ではないのだ。 「みー君、ご飯よー」 ハンバーグの香りが部屋のほうまで届いていた。階下の母に返事をすると携帯を閉じる。そして冷たい携帯に渇いた唇を落とした。 「もうすぐ会えるね、ムック。・・・・・・それともロクドウムクロさん、かな?」 嗚呼、これでようやく満たされる。 |