「ムクロ、会いに来たよ」

 河原に立ちそう告げた。水面は夕日を浴びて赤く、まるで血のように輝いている。

「ムクロ、ムクロ、お前なんだろう?」

 俺を殺そうとしているのは。さっきの自動車事故だけじゃない。植木鉢が落ちてきたことも、階段から落ちたことも何度もあった。そしてその直前にムクロはいつも俺の前に現れた。

「ムクロ、いいんだ。お前がそうしたいなら俺はっ」

 ばしゃばしゃと水滴を飛ばして川に足を進める。この辺りは浅いが、もう少し進めばこの川は一気に深くなる。


 あの日ムクロを飲み込んだように。


 宵闇に紛れるように、水面の反射のようにムクロがすぅと姿を現した。水の上に浮かぶようにしていても、その姿はやはりびしょ濡れだ。

「ムクロ」

 あれから十数年たった。俺は小さいながらに成長したけれど、ムクロはそのまま。あの日の7歳の姿のままだ。



 俺と、ムクロは友達だった。たぶん、親友だった。
 
ダメツナの俺と違ってムクロはなんでもできたけれど、他人を嫌う質のようで友達は居なかった。俺たちはお互いが唯一の友達だった。
『大人はあんまり好きじゃない。クラスメイトも五月蝿くて嫌いだ。……でも君の事は嫌いじゃないですよ』
 孤児のムクロは家族が居なくて、なかなか帰りたがらなかったから、俺たちはいつも夕日が落ちるまで二人で遊んだ。
『夕方になるとね、時々無性にどこかに帰りたくなるんです。でも帰りたいのはあそこじゃない。僕にはあそこしか帰る場所なんてないのに』
 ムクロは何でもできた。そして何にもできない俺をいつも助けてくれた。
『本当に君はダメツナですね。ほら、立ってください。土が付いてる』



「お前が生きるべきだったっ!俺なんかよりお前が生きるべきだったんだ」

 あの日二人で川に落ちたときだって。

「あの時だって、お 前 が 俺 を 岸 に 押 し た ん だ !」

 俺はいっぱい暴れたのに。ムクロのことなんて気にもせずに、きっとお前のことも蹴ったのに。なのに俺だけが助かった。
 母さんも、先生も、まわりの大人はみんな俺が助かったことを喜んでくれた。


 だれも。

 だれも。だれも。だれも!

 誰も俺のことを責めなかった! 俺はムクロを殺したのに。俺のせいでムクロは死んだのに!


「ごめん、ムクロ。俺が、俺がお前をそんな姿にしてしまった」

 ばしゃりっと水をかき分けるようにして、俺はムクロへと足を進めた。より河の深い方へ。苔の生えた石に足が滑る。胸元まで水がかかった。

「……綱吉君」

 俺が立てた波紋に揺れるようにして、静かにムクロの唇が動いた。久しぶりに聞いたその声は記憶にあるよりもずっと幼い。そのことに愕然とする。

 ああ、彼はこんなにも子供だった!

 あの頃なんでもできると思っていたムクロは、ヒーローのように思っていたムクロは、今見てみればこんなにも幼い。

「ねぇ、綱吉君。僕は怒っているんですよ」

 幼い容貌に反した大人のような語り口。そうだムクロはこんな奴だった。

「僕は、僕はずっと君を見ていた。だけど君は僕を見ようとしなかった」

 つぅっとムクロが水面を滑って俺に近づく。もう手を伸ばせば触れることだってできる距離だ。

「ねぇ、綱吉君。僕は君に僕を見て欲しかった。どうして僕は今でもこんな風に濡れていなくちゃいけない?」

 ムクロの腕が俺に向かって伸ばされる。この腕が俺の首を絞めるのだとしても、川底に沈めるのだとしても構わないと思った。

「俺だよ。俺のせいだ。ごめん、ムクロ。俺がお前を殺してしまった。俺のせいでお前は今もそんなびしょ濡れの姿のままだ。だから、いいよ。お前になら殺されても構わない」

 脳裏に愛しい人の顔がよぎった。でも、だからこそ俺は目を瞑る。殺されるならば、今が良かった。
 死を覚悟してムクロの幼い手を待った。

 ねぇ、ムクロ。
 今更信じてもらえないかもしれないけれど、俺はお前が好きだったよ。



 ぺちゃんっ



 どこか間抜けな音を立てて、水を纏った手が口を塞いだ。

「……っ!?」
「くふっくふふ」

 予想外の行動に眼を白黒させていると、特徴的な声でムクロが笑った。

「くふふ、前から思ってましたけど、君やっぱり馬鹿なんですね」

 呆れきったとばかりに笑うムクロの手が離れると、俺の口元から顎へと水滴が伝う。水を纏ったムクロの手はしょっぱかった。

「どうして……?」

 自分の味覚が信じられなくて、口を押さえる俺をムクロが見下ろす。

「……こんなお話を知っていますか?」

 静かな声でムクロが語る物語。俺は呆然とした気持ちのままそれを聞く。

「あるところに子供を亡くした女がいた。女は毎日毎晩子供を思って泣いていた。

 ある日女は夢を見る。子供の夢だ。

 彼女の子供はその背に大きな壷を背負って重い重いと嘆いていた。女は子供の壷を代わりに持とうとしたが、掴むこともできない。困った女は子供に尋ねた。

 その壷の中には何が入っているのかと」

 そこまで話してムクロはその小さな首を傾けて笑った。

「さぁ、何が入っていたのだと思います?」
「………」

 答えられない俺にムクロは小さく微笑んで、その両腕を広げた。

「その壷の中身はね、女の涙だったんですよ」

 ムクロの幼い手が俺の両頬を挟んだ。びっしょりと濡れた感覚が頬に広がる。

「僕が死んで、泣く人はほとんどいなかった。僕は別にそれでいいと思っていた。だけど――」

 ムクロの手からから流れた塩水が俺の頬を伝う。それは慣れた感覚だった。

「これは、俺の……?」

 俺の答えに眉を傾けてムクロは微笑んだ。まるで出来の悪い生徒を相手にした教師のよう。言葉にするなら「ようやく分かったんですか」といったところか。

「あのね、綱吉君。僕は怒っているんですよ。僕は君を助けたことを、後悔したことなんて一度もなかった。なのに君は嘆いてばかり」

 優しく微笑みながらそう言うと、ムクロはこつんと自分の額を俺のそれに当てた。

「ねぇ、綱吉君」
「っうん」
「お願いだから、泣かないで」
「……うん、ごめん」

 俺がボロボロと涙をこぼしながら謝ると、ムクロはやっぱり呆れたように笑った。それを見て俺も泣きながら笑う。


 これがムクロと俺の十数年ぶりの再会だった。



 黄泉の河を越えて



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